研究者を目指すという熱病

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浪人時代の1年、得たものは0

   前回のエントリーで書いたように、私は現役時代の受験に失敗し、全落ちという結果を携えて浪人生活に突入しました。浪人が決まったとき、私は予備校に通うことにするか、いわゆる宅浪生として独学で勉強するか、について少し迷ったのですが、結局、「受験勉強なんて自分次第」というテーゼを徹底的に貫き、自宅浪人をすることに決めました。

 ただ、これが転落の始まりで、私は高校を卒業してから4月の二週目に入るまで、毎日、前回のエントリーで紹介した親友と遊び呆け、その親友が予備校に通い詰めになって彼と会う頻度が落ちても、私はいまいち受験のスイッチが入らずに、家でダラダラと勉強をしたり、ネットをしたりして時間を浪費していました。

 特に、ちょうどGWが始まる直前に「サドンアタック」というネットゲームに嵌ってしまい、私は夕方に起床してから、明け方までボイスチャットを繋げたネットゲームのチームメイト(クラン員)とゲームをし、それが終わってからお昼まで帳尻合わせの勉強をするという、受験生とは言えないルーティーンで6月いっぱいを浪費してしまいました。

 また浪人していたのは2010年で、ちょうどワールドカップが6月から始まったのですが、私はほとんどの試合をライブのテレビ中継で深夜に観戦しては、サッカー雑誌の付録としてついていた対戦表に、実際の対戦結果を書き込むという楽しみを見つけだして、そんなことをしている間に6月、7月があっという間に過ぎ去っていきました。

 気がつけば、8月になっていました。さすがの私も、そろそろやばいと焦りが生じ、その時期から、ネットゲームを絶って少しずつ勉強時間を増やしていったのですが、7月、8月のたった二ヶ月のがんばりではどうすることもできず、また英語の長文も全く読めるようになれずに、時間だけが過ぎていきました。正直言って、この頃の記憶はサッパリ残っていません。ひきこもりがちになり勉強はしていた記憶はあるのですが、それ以外の記憶は全く残っていないです。

 ただ、8月に数ヶ月ぶりに、親友と再会したことは覚えています。久々に外出したせいで照りつける太陽の刺激にあたって白い肌を真っ赤にさせながら、黒のセックスピストルズのバンドTを汗でぐっしょりとベトベトにしながら河川敷で釣りをしましたが、その日の釣果はさっぱりで一匹も釣れなかったので、今度はその河川の上流で罠を仕掛けて、その罠で取れた魚をおかずに味噌汁とご飯を食べようと話し合って、私のマンションでペットボトルによる罠を作った後に、1時間以上もかけて夕暮れも迫る山道(国道)を自転車で駆け登って罠を仕掛けてから、今度は行きにかかった半分ほどの時間で地元に戻りました。

 「今度こそ、魚取れるよな。俺、魚食いたいねん。」と私が確認すると、

 「取れるはず。」と、私を安心させるように彼が言ったやりとりを今でも覚えています。

 翌日、空が明けきったばかりの時間に、市役所の前で彼と待ち合わせをして、真夏にもかかわらず朝のひんやりとした向かい風に包まれながら、昨日と同じ道のりを彼の自転車と並んで力いっぱい漕ぎました。前日、河川敷で浴びた日射によって生じた赤みからヒリヒリした刺激痛がまだ残っていました。

 道中のコーナンというホームセンターで、味噌汁を作るための鍋やお湯を沸かす焚き火のための炭などを購入してから、それから罠を仕掛けた川の上流に到着して、私たちはすぐに罠に魚がかかっているかを確認しました。

 しかし、成果は0。魚は一匹も罠にかかっておらず、結局、私たちの食事は、家から持ってきた白飯と、味噌汁、そして子ども用の魚取り網で取れた「シラス並みの小ささ」の川魚だけでした。落胆しながら私たちは仕方なく、その「シラス」並みの川魚を、味噌汁の中にぶち込み、その味噌汁とご飯を食べることにしたのですが、その味自体は、とても美味しかったことを記憶しています。

 ただタイミング悪く、ご飯を丁度食べ終えたあたりで予報にはなかった雨が降り始め、焚き火がその雨によって消えるなかで、傘などを用意していなかった私たちは、服を濡らしながら急いで撤収を進める中で、ある一つのことで、揉めました。

 それは、途中のホームセンターで買った「鍋」を捨てるか、捨てないか、ということについてでした。具体的に説明すると、その鍋は、彼が自腹で全額を出して購入したものだったのですが、彼の両親は勉強に対してかなり厳しく、その日も親に予備校に行かずに遊んでいることを内緒にしていたのですが、もし鍋を家に持って帰ってしまうと親にばれてしまうので持ち帰れないけれども捨てたくはないので、私に代わりに持って帰って欲しいと頼まれたことに対して、私が拒んだことで揉めたという、今考えると下らない理由によるものでした。

 ただそのとき不満に思っていたのは、彼がなぜ親に反発しないのか、なぜ常に親の顔色を伺っているんだ、友達と遊ぶことに親の許可がいるのか、という点だったと思います。「19にもなって親のいうことに常に従っている、従わなければならない親友」に対して苛立ちを抱えていました。

 また、せっかく数ヶ月ぶりに会った友人と、それほど会話が弾まなかったこともあったかもしれない。この記事で上述したとおり、親友と会わなくなってからの数ヶ月は、同じように受験生である彼に対して何か勉強にまつわるような雑談になるような出来事が全くなかったからである。自業自得とはいえ、部活を引退してから1年経って胸板が薄くなった、予備校で勉学に打ち込んでいるであろう彼を目の前にして、私は自分自身に対して苛立ちを感じていたからかもしれない。とにかく、最低な人間だったと思う。久しぶりにあったにもかかわらず、その時間を楽しもうとする努力さえ欠いていた。

 向かい風に乗って降り注ぐ小雨を顔で受け止めながら、山を下っている間、彼とはほとんど口をきかなかったし、地元の市役所の近くにある噴水前に戻っても、帰路で雨で濡れた髪から仄かに焚き火の匂いを漂わせたまま別れ際もほとんど会話を交わすことなく、「またな」とだけ言い、それから受験が終わる3月まで1度も会いませんでした。

 浪人をしていた時期の夏の思い出はこれだけで、ほかの事は何も思い出せない。

 それから季節が変わり、秋となり冬になるわけですが、実はこの時期の記憶もあまり残っていないです。自分の本当の学力が露呈することを恐れて、模試はとうとう、一度も受けませんでした。

 年が明け、私立の前期一般入試が近づき、サッカー日本代表アジアカップで栄光を掴む時期にあっても、英文はさっぱり読めるようにならず、去年積み重ねてきた政経の知識はゴッソリ頭から消え去り、英語が全く上達しない焦りの中で古文に至ってはほとんど手付かずといってよい状況でした。

 この時期になると、私はなんとなく自分がおかれた状況を客観的に理解していたと思います。

 頭が灰色になり、頭を使う勉強が全く手につかず、1日中、英単語帳を眺めて過ごした日もありました。1ヶ月以上、家の外から全く出なかった時期でした。暖かいシャワーを浴びながら不意に涙が出そうになる中、もし高校の同級生たちに、浪人しても自分がどこの大学にも受からなかったら何を言われるだろう、教師に何と言われるだろう、そう思いながらシャワーの無数の穴から溢れる飛沫で顔を両手でゴシゴシと洗ったこともありました。タイムスリップの方法を真剣に、携帯で検索したこともあります。

 毎日の時間が、溶けるように消えていくことを感じながら、何ら軌道修正することもできずにあっという間に2月となり、そして簡単に、あっさりと、私は前期の私立一般入試で全落ちしました。

 不合格の大学から届いた葉書の山を見ても、私は悲しい気持ちになりませんでした。まあ、当然だろう、そんな諦めに近い気持ちでした。

「今まで、ダメ人間やったし、屑は屑のままなんだ、そりゃあ中学の頃に一切勉強せんかった人間が、いきなり勉強できるわけないよな、勉強できる人間だったらそもそも中学時代から勉強していい高校に行けてるやん。」

 こんな気持ちで、私は後期の一般入試の大学を受験したわけですが、このときはランクを落とした大学を受験したにもかかわらず、この大学にも落ちてしまいました。

 その年も3月になっても、私の進路は決まりませんでした。

 八方塞りの中で、就職するか、もう一度浪人するかを決めなければなりませんでしたが、もう一度浪人をしようという気力、根性はありませんでした。学力はさっぱり上がらず、この浪人時代に得たものは明らかに0でした。どうせもう1年やっても同じことになると自分でも気づいていました。

 ただ、たいした努力をしなかった癖に大学に入りたいという欲求だけは1人前で、なんとか大学に滑り込める手段はないかと必死にインターネットで調べた結果、行き着いたのが「大学編入制度」であり、そのための編入予備校のホームページでした。私は即決で説明会に参加することにしました。

 

追記)当時、親友と釣竿を買いに訪れた上州屋は、残念ながら数年前に閉店してしまいました。そのお店で購入した最安値の釣竿を携え、太陽を背にして河川敷に彼と並んで立った時に受けた、Tシャツの隙間から少しだけ覗いた襟首へのひりつく、刺激的な日差しを今でも忘れていません。