研究者を目指すという熱病

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フルコンタクト空手との出会い

 編入予備校生活の1年目の終わりにフルコンタクト空手の道場に入会したことを前々回のエントリーでふれた。今日は、その空手道場についての想い出を少しだけ書きたい。

 私は中学時代、陸上部に入っていたが、そこでいわば幽霊部員となってゲームセンターに通い詰めるようになってから、まともにスポーツをした経験はなかった。せいぜい、友人とお遊びでするサッカーくらいが、身体を動かす唯一の機会だった。また高校卒業時に50キロほどしかない痩せた身体は、思うが侭の浪人生活によって10キロ以上も太り、悪い意味で成熟した男の姿へと近づいた、豊満な肉付きのよい体格へと変化していた。もう19歳で、あとひと月で20歳になろうとしていた。

 そんな運動や節制とはかけ離れた私を、首痛の治癒のために高校の頃から通っていた整骨院の先生が、空手道場を開設したとのことで体験に私を誘ってくれた。私が長い間、燻っていたことも先生は知っていた。12月になったばかりの頃だと記憶する。

 半ば無理やり強引に「騙されたと思って一回来てみ」という言葉を無碍にすることができず、学校が終わった夕方に空手道場の扉を叩いた。

 扉を開くと、ちょうど「大人の部門」が始まる前の時間に、太陽が完全に落ちきる前に稽古していた稽古後の子どもたち数人が、胴着を着替えたり片づけをするのを手伝ってもらいながら、先生と言葉を交わしていた。道場は暖房が少しだけ効いていたが、肌寒い。

 私が開いた戸をそっと閉めてから「先生、こんばんは。来ました。」と喉を震わせて挨拶すると、「お~来たか。ちょっとまだ子どもでいっぱいやけど、そこに更衣室あるから」とニヤっと笑いながら部屋の片隅にある、更衣室と呼ぶには狭っくるしい小さなスペースを指差した。

 着替えをしながら自分の呼吸が壁から跳ね返ってきそうなほどの2畳もない、狭いスペースで私は、家から持ってきた運動用の半ズボンと半袖のシャツに着替える。ここまで暖房の暖かい風は全く届かない。子どもとその保護者、そして先生が、その日の稽古や子どもたちの学校生活について楽しそうに話す声が、更衣室とやらの仕切りの隙間から聞こえる。着替え終わると、私は子どもたちから離れた道場の隅に座り込んだ。プラスチックの椅子に座ったかもしれない。あまり覚えていない。

 そこに先生が、「もうちょっとだけ待ってな」と、子どもの方を見ながら言う。

「よく来たな。」そんなことも言ってくれたかもしれない。

 それから十分ほど待つと道場に、その先生が勤務していた整骨院の同じ従業員(当時はバイト)の人が来た。私もよく見知っている1つか2つ年上の爽やかな人で、サッパリとカットされた髪を綺麗にヘアワックスでセットし、前髪を二つに分けて額を隠さずにしっかりと出していた。私は、普段から知っている人が来たことで少しだけ安心した記憶があるが、稽古前は挨拶をしただけでそれ以上、言葉を交わすこともなかった。緊張していたからだと思う。

 それから今度は、身長が低く坊主頭で私が一度も会ったことがない20代中頃あたりの人が入ってきた。The 体育会系といってよいと思う。乱雑に刈り上げられた頭で、無造作に荒れた、艶のない肌の眼光が鋭い人だった。簡単に挨拶した。値踏みするような目で見られたと思う、思い込みかもしれないが。

 挨拶もそこそこに、ようやく子どもたちが親に連れられて道場の外に出て行く。眼鏡をかけたふくよかな体格の一人の母親が、「ありがとうございました~」と野太い声で道場を後にする背中が見える。いよいよ練習が、稽古が始まる。

 稽古は、先生を含めてその日は、4人で始まるようだった。開設されてから間もないから仕方ない。先生は「今日は体験に来てくれてるのにちょっと寂しいけど」と言ったが、私にとっては少人数の方がありがたかった。太陽が完全に落ち切ったことを、道場に備え付けられた数枚の窓が知らせてくれた。

 まず、先生の動きに合わせて、正拳突きをすることから稽古は始まった。見よう見まねで先生の動きを真似する。ぎこちない動きでなんとかついていく。次は、ワンツー、アッパー、フック、そういう形でシャドーの稽古が終わった。この稽古が終わる頃には、みな涼しい顔で胴着の帯などを直している中で、私だけ息が完全に上がっていた。シャツは既に身体から溢れ出た冷たい汗でぐっしょりになっていて、ぴったりと肌にはりついていた。それを心地よい感触だと、感じる余裕は、そのときにはなかった。今すぐにでも膝に手を当てて呼吸を整えたい、もしくは座り込みたい気持ちだった。ぐっしょりと濡れた細い髪の毛の隙間から粒状の汗が、額をつたって、それから頬にできたニキビの上を刺激しながら顎へと流れ落ちていく。

 刺激的な頬へのヒリツキを感じながら、休む間もなく、今度は移動稽古なるものが始まった。その場でワンツーをしてから、一歩だけ進み、またワンツーをし、一歩だけ進んで、道場の端から端まで進むという稽古だ。それが終わると、この動きに前蹴りなどの動きを加える。

 前蹴りを加えた移動稽古が始まる頃には、酸欠状態に陥り始めた。必死に前蹴りをする脚に力を込めて血液を送り込む代償に、脳から全ての血液がなくなっていくような真っ白な感覚に襲われる。暖房の生温い風が、今度はうっとおしい。稽古場に置かれたプラスチックの椅子が歪んで目に映る。すぐにでも座り込みたい気分だったが、なんとか喰らいつく。休憩をいつとることができるのか、初めて稽古に参加したので分からない。「根性が無い」、そう思われたくない一心で、なんとかやり遂げることができた、と思う。

 このときの自分は、高校時代とは全く違った自意識を持とうとしていたと思う。高校時代は腐るほどスポーツに秀でた同級生がいた。一方で、編入予備校では私より幾らか勉強ができる学生がいたが、スポーツで優れた実績を上げた同級生はいなかった。それに受験勉強で何年も燻っていた私は、勉強以外の何かが欲しかった。

 はっきりいうと矛盾していた。高校時代の同級生に対しては勉強によって、勉強では勝てなかった相手(編入予備校の同級生や一般受験で合格していった者たち)にはスポーツによって、まるでジャンケンのような矛盾した自己実現によって、自己を保とうとしていた。

 それゆえ、稽古に必死で喰らい付いた。その後に行われたミット打ちもぎこちない動きで全力でこなしたし、組み手(いわゆるスパーリング)にも参加した。いわゆるフルコン空手は、顔面と金的以外の打撃、すなわちパンチとキックによる直接打撃が許される。

 この組み手で私は醜態を晒した。私はまず、いかにもスポーツだけをやってきた容姿のKさんと組み手をすることになったのだが、Kさんが繰り出したパンチによって腹部に重い衝撃と、ズシッと鈍痛が残る。その痛みを振り払うように、右のストレートを打ち込むが、私のパンチはKさんの太い二の腕の筋肉に吸収され、パンチのために伸ばした私の右腕を掻い潜るように、彼の左のボディブローが私の肝臓部分を襲った。フウッと息が出すのが精一杯になりながら、なんとか堪える。痛みで汗も出ない。反撃を試みる。だが、つい先ほど食らったボディーブローが頭をよぎる。私がこんど、左ジャブを繰り出せば、次はその下をすり抜けるような彼の左ストレートをもろに受けることになるだろう。アクションを起こせば、それが裏目に出るのだ。私が反撃すれば、もっと強烈な相手のパンチが飛んでくるかもしれない、そう思うと手が出せないのだ。このままでは終われない。だが、手を出せない。脳裏を、彼のボディーブローが過ぎるからだ。熱を帯びていた、髪の毛から滴り落ちていた汗は、すっかり冷え、寒気が、身体全体ひやりとした血が走っていく。身体が、ガチガチに硬直していく。その時、私ができたことは、背中を丸めて自分の腹をこれ以上殴られないように両手でガードすることと、申し訳程度のジャブを繰り出すことだけだ。たった2分の、1ラウンドの終わりを告げるキッチンタイマーの音が鳴り響くまで、背中を丸めて痛みをこらえるだけで私は何もできなかった。

 他の道場生が次の組み手のために腰に手を当てて呼吸を整える中、「ちょっと休憩いいですか。」とだけ先生に言い、私は、道場の隅に置かれた、プラスチックで出来た、質素で、簡素で安っぽいイスに腰掛けた。私も息を整える。胸を打つ、心臓の鼓動を感じることが出来ないほど、私の頭は真っ白な視界で揺らされながら、立ち上がることすらできなくなった状態で、彼らのことを眺め続けた。

 それから、私が組み手に参加することはなかった。彼のパンチをガードした前腕は、高潮した頬のようにほんのりと赤く染まっている。これは、戦場で傷ついた男の、勲章の傷跡とはならない。痣になるほどでも、疼くほどの痛みを感じせしめるわけでもないその腕のほんのりとした赤みは、彼が私の力量を見てすっかり腕に込める力を途中から抜いた明白な証拠と、私が彼の追撃を恐れて露呈せしめた意気地なさの厳格な証明を為すものだ。彼の両目に映る、私の姿は、しごく、みっともなく、情けないものだったと思う。

 この痛さは、およそ学校生活で経験したものとは違った。高校時代に制服のズボンからシャツが出ているという理由で、徳田という数学教師に頬を張られたこともあれば、中学時代に所属していた陸上部の柏崎という理科教師に胸倉を掴まれて壁に後頭部を打ちつけられたこともある。だが、教師から身体に受ける痛みは刹那的な、瞬間的なもので、そんな痛みは、目を瞑って、頭の中で彼らを罵っているうちに、あっという間に消えていく。頬や、首筋の赤みなど、遅くとも次の朝には引いており、その色も痛みもどこか空気の中にでも溶け去っていくように、真っ白な肌を取り戻していた。

 道場に初めて通った次の朝に、これらのおよそ学校生活で経験したものとは異質な、これまでとは違った痛みを感じながら目覚めた。その痛みは、灼熱の太陽が降り注ぐ須磨の海岸で、半日ほど海水浴をした後に日焼けで真っ赤になった皮膚を、風呂の湯に浸したときに感じる、この痛みがこれからどれだけの時間続くのだろうと考えただけで、憂鬱になるひりついた痛みだ。

 前日の夜、ほんのりと赤く染まっていただけの前腕の打撲は、翌朝になると、青い、いや茄子のような熟した緑へと変わり、熱を帯びていた。この熱が、ひりつくような痛みをもたらしていたに違いない。その打撲の生々しい傷跡は、徐々に、生白い肌を侵食するように広がっていった。

 そのひりつくような痛みと熱によって入会を決めたのか、それとも単に自分の弱さになすがままに、流れるままに、今度も空手道場への先生による入会の誘いを断り切れずに入会したのか、自由に決めてほしい。私にも分からない。ただ、受験が迫る6月あたりに休会するまで、私は毎週、この場所に休まずに通うことになる。あと1ヶ月で20になる冬の話だ。