研究者を目指すという熱病

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法学部を志望した理由

 私は高校時代、「たかじんのそこまで言って委員会」という番組を愛聴していた。もはやいわずと知れた、右派・保守番組であることは言うまでもない。本エントリーとの関係では、その番組の中で「憲法9条」や「君が代・ピアノ伴奏拒否問題」にかかわるテーマが取り上げられていた回があったことを確認しておきたい。これらのテーマが、とりわけ法学上、正面から取り組まれている問題であることも念のため確認しておきたい。

 端的に、私は当該番組の出演者の考え方の方向性に賛成し、コミットしていた。保守系オピニオン雑誌を購入したこともある。

   ただ、当該番組の出演者による、ある一冊の書評本によって私は、価値判断と、ひいては人生を変える書籍に出会うことになる。

 その書評本は、当時、その番組にレギュラー出演していた宮崎哲弥氏(以下、敬称略)による宮崎哲弥『新書365冊』(朝日新書、2006年)である。本書は、雑誌「諸君!」に2002年1月号から2003年6月号までに連載されていた、新書に対する書評を取り纏めた一冊である。その書評の中で紹介されていた書籍が、憲法学者である長谷部恭男『憲法と平和を問い直す』(ちくま新書、2004年)であった(以下、敬称略)。

 長谷部恭男について、宮崎哲弥はその書評の冒頭で「この世代の逸材ともなると、かつての憲法学者に付き物のナイーヴさは微塵もみられなくなる。基本的人権の尊重を、金科玉条のようぬ奉ることも、民主主義や平和主義を絶対視することもなくなる」と評する(宮崎前掲・124頁)。

 共同体主義者である宮崎哲弥は、無論、長谷部を全面的に支持する書評を書いていたわけではない。しかし、上記の一文が、私にとっては極めて刺激的であり、決定的であった。私は『憲法と平和を問い直す』を購入するために書店へと走った。

 購入後、さっそく本に目を通すと、長谷部の叙述は私にとって極めて魅力的であった。以下では、様々なリソースとの関係で本書の内容を適切に要約することには限界があるが、私がなぜ法学に関心を持ったかを説明することに十分なだけの要約を試みたい。その魅力の一端を示すために、まず、あとがきの二つの文章(長谷部前掲・203頁)を紹介するのがよいと思う。

 「第一に、『憲法と平和』とくれば、憲法に反する自衛力の保持を断固縦断し、その1日も早い完全廃棄と理想の平和国家建設を目指すべきだという剛毅にして高邁なるお方もおられようが、そういう方には本書は全く向いていない」とする。

 「第二に、『憲法と平和』とくれば、充分な自衛力の保持や対米協力の促進にとって邪魔になる憲法九条はさっさと『改正』して、一日も早くアメリカやイギリスのように世界各地で大立ち回りを演じることのできる『普通の国』になるべきだとお考えの、自分自身が立ち回るかはともかく精神的にはたいへん勇猛果敢な方もおられようが、そういう方には本書は全く向いていない」とする。

 「あとがき」でこの2つの文章によって、著者である長谷部は自著についての位置づけを述べる。この叙述に目を通しただけでも、興味を惹かれた方もいらっしゃるのではないだろうか。

 長谷部は、第一章および第二章で、多数決主義に基づく「民主主主義の限界」を端的に明らかにする中で、「社会全体の統一した答え多数決で出すべき問題と、そうでない問題がある」との立場を示した上で、第三章で、中世以降の血みどろの宗教戦争を具体例として提示しながら「人生の意義にかかわる二つの根底的な価値観、たとえば二つの異なる宗教は、両方を比べる物差しが欠けているという意味で、比較不能になる」とし、「複数の究極的な価値観が優劣をかけて争えば、ことは自然と血みどろの争いに陥りがちである」との現実への認識の下で、民主的手続による国家権力によっても侵すこと(決定すること)のできない私的な領域を保護するために、「異なる価値観が公正に共存しうる、そういう意味で正義にかなったー社会生活の枠組みを構築するという途、つまり立憲主義という途もありうる。」と説く(長谷部前掲・1頁ー72頁)。

 この書籍の叙述は、主として以下の2つの理由から、私にとって刺激的な内容で溢れていた。

 第一に、高校の「政治経済」ほどの知識しか持たず、「民主主義」と「立憲主義」との緊張関係を意識したこともなく、また自己の政治的スタンスから「憲法」や「皮肉的な意味での戦後民主主義」に対して冷めた目で眼差しを送っていた私にとって、「民主主義」と「平和主義」への過大な尊重を、問い直しうる仕組み(制度)が「立憲主義」であり、しかも「憲法」なのだと突きつけられたからである。私は、衝撃的な気持ちで本書のページを捲り続けた。

 第二に、個人の生き方にかかわる究極的な自己決定を、その民主主義的手続によっても侵しえないとする長谷部の叙述は、私にとっていわば、学校の勉強にも乗り切れない、スポーツにも乗り切れない、教師が「善い」と考える価値観に乗り切れない私にとって、「単一」の価値観から逃れようとしていた私にとって、法学的な関心にとどまらない、正真正銘の「文学的」な力を持っていた。村上龍の言葉を借りれば、「精神の自由をexpand」されたのだ。

 本書を読み終えた後、私はさらに翻って、以下のようなことに思いが至った。

 私は教師や同級生の親たちが考える善い行動どころか、望ましい行動さえもできず、しかもそれを強制されることに常々、苦しみを感じていた。このことが偏差値40以下もないドン詰まりの高校で、大学受験を決意させた理由であったことは、既に別のエントリーで述べた。

 そしてこのような自己の立場から省みたとき、では「君が代、ピアノ伴奏強制問題」に対して、私はどのように答えるべきなのだろうか、とその疑問と答えに至るまでにそう時間はかからなかった。

 その後、私は大学受験に失敗し、編入ルートによって法学部を目指すことになる。実は編入試験の際に、社会学部や文学部への編入を目指すことも検討した。だが、私は法学部を志望することにした。その理由のひとつとして、本書との出会いを挙げなければならない。編入後、憲法ゼミにも入った。

追記)編入予備校での法学コースの担任の先生が、とてつもなく好きだったことも挙げておきたい。また宮崎哲弥が、彼が自認する大衆と共に生き、大衆と共に死ぬ「辻説法師」であったことも、特に記録してここにとどめておきたい。