研究者を目指すという熱病

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映画『響 HIBIKI』の感想(ネタバレあり);素晴らしかった!!

日、月川翔監督の映画『響 HIBIKI』を観に行った。

 欅坂46のファンで、平手友梨奈さんが本作に出演していることがきっかけで劇場に足を運んだ。公開初週には、大学院での研究の進捗報告があったので残念なことに時間を作れなかったが、報告も終わり、ようやく落ち着いたので、映画館に行くことにした。

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 まず、平手さんの欅坂46における活動と、彼女が演じた「響」という天才小説家という役柄とが、リンクしていてその演技が素晴らしかったという、twitterなどで不覚にも目に入った前評判に賛同することになった。興行的には芳しくないようではあるが、個人的には、「凡人」を描いた最高の映画「ガタカ」と比肩できる映画だと感じた。自分は普段、それほど映画を観るわけでもないし、映画を語れるほどの力量もないし、映画のストーリーの要約も上手にできないと思うので、自分が感銘を受けたシーンや登場人物の台詞を中心に、僕の個人的な人生との関係での感想を述べてみたい

 なお、このエントリーで記事にした登場人物の引用符である「」内で引用した台詞は、二回目に映画を観た際に簡単にメモ帳に記録したものに基づくので、不正確な台詞の引用となっているかもしれません。ご容赦して頂ければ幸いです。

 

 これまでの僕はどちらかというと、凡人が自らの努力で道を切り開いていく映画である「ガタカ」や、自分が本当にやりたいことが何であるかはまだ分からないが、それでも今を生き抜かなければならないというメッセージを受け取ることのできる(小説となってしまうが)石原慎太郎さんの「処刑の部屋」のような作品を好んでいたし、欲していたと思う。

 しかし、「ガタカ」や「処刑の部屋」の主人公とは、まるで正反対のキャラクターである鮎喰響によって、僕は、完全に殺されてしまい、映画響 HIBIKI」は、上記の2作品とは全く異なるカタルシスを与えてくれた。

 本作の主人公である、天才小説家としてデビューすることになる響は、担当編集となる北川景子さんが演じる花井ふみと最初に電話して自分の小説の感想を初めて人に伝えられた際に、「読んでもらうこと、楽しんでもらえることはうれしい。」と笑みを湛え、またその後のシーンで「感想だけ聞きたかった。小説家になるなんて考えてなかった。」と伝える。

 響以外の登場人物たちが、文芸賞に振り回されている中で、彼女だけが世俗的な賞レースに対して驚くほど無頓着である。また、「芥川賞をとった時から俺にはもう書きたいことなんて別にない」と言い放った北村有起哉さん演じる芥川賞作家に対して、響は「だったらどうして書き続けてるの?」と心底驚いた表情で問いかける。響の問いに対して北村有起哉さん演じるその芥川賞作家も、なぜこんなことを聞かれているのか、戸惑いながら「え?」と聞き返すと、「え?」「え?」「え?」と交互に、二人ともお互いに驚いた表情と少しニヤけるような笑みを隠し切れずに繰り返すやりとりがあり、その後に、その芥川賞作家が「惰性だよ。」と答えるシーンがある。響の、「だったらどうして(小説を)書き続けてるの?」という台詞は、スクリーンから羽ばたいて、現実の私に対して後述するように「だったらどうして大学院にいるの?論文を書き続けているの?」という言葉と問いへと変えて、私の頭を貫いた。響の私に対する精神への駄目押しはまだまだ続いて、小栗旬さん演じる芥川賞に落選した作家との踏切でのシーンで、自死を試みる彼に、「書きたいものがある限り、書き続ける。」「私はそうやって生きていきたい。」と告げる。

 僕は、リーマンショックで不景気、就職氷河期のニュースが報道されていた時代に、受験生だった。高校は偏差値38の、大学進学もままならないような偏差値社会では底辺校だったが、「いい大学に入って就職したい」という極めて世俗的な理由で進路を選んだ。大学に進学後、就職活動をする中で、結局、「このままで自分の人生はいいのか?」と自問自答し、法学研究科に進学することで、法学を研究する道を選んでみてはいいもの、常に、自分より法学を研究することを愛している先生や、明らかに自分より優れた才能を持つ先輩や先生の存在を前にして、「これ(法学)が本当に自分がやりたかったことなのか?ここでいま論文を書き続けることに意味があるのだろうか?」と逃げるような疑問と考えが、時折、特に自分に対して自信を失っている時期に頭を通り抜けていくようになった。「自分は研究者になれるのだろうか?」という問いや「経済的に早く自立したい。」という欲求もまた、率直に、響からすれば、世俗的だと思う。こうした「迷い」の時期の中で、自分にとって苦しい時期になおもこの院生という地位にとどまっていたのは、もはや後には引き返せないという現実と、挫折したと思われたくないプライドであり、そして「他に選択肢がなかった」という「惰性」だったと思う。

 このようなとりわけ、自分にとって苦しかった時期に、(否、今も僕の肩に重くのしかかっているかもしれない!?)僕自身が抜け出せなかった生き方、そして価値観が、響の劇中での生き方と「言葉」によって真正面から否定されて殺されていくような、灰色の煤で汚れた心が浄化されていくような気持ちをこの映画は与えてくれたし、今まさに学位論文を執筆している私にとって、熱い直接的な鼓舞さえも、響は送ってくれた。

 響は、上述の踏み切りのシーンで「売れないとか、駄作とか、駄作しか書けないから死ぬとか、人(読者)が面白いと思った小説に作者の分際で、何、ケチつけてんの?」と言う。

 この響の言葉で僕は、(自分の論文でいま)書きたいことが少なくとも存在する以上、僕は「後の(論文の評価とかそういう諸々の)ことは何も考えなくていいんだ」と、すなわち、書きたいことや伝えたいことがあって論文を書いた後に、その価値は批評する指導教授をはじめとした先生方が決めることであって、書き手としては、ただ自分が書きたいことを全力で創り出すことまでが仕事であって、その後のことは読者に委ねるだけでいいんだよ、と響に背中を押して貰えた気がした。いま僕が抱えている「自分の論文がこれからどのように評価されるのだろうか?」という現在進行形の不安を、響が全力で振り払ってくれて、爽快な気持ちで、僕はラストシーンである夜の東京を走るパトカーの姿を潤んだ目で追った。

 僕はこの映画で、まじで、まじで、まじで大学院での研究をがんばろうと思った。

 本作は、「天才と位置づけられる者にも、他者や社会との関係における戸惑いや苦しみ」があるという平手さんの演技や演出がこの映画で見事に表現している。

 ただ、もう一度僕自身の話に立ち戻ると、自分は前述したように響の側の「天才」ではなく、普通の人間で自分が選択した道の過程でさえ、時折、心が折れそうになる、世俗的で、弱い人間だと思う。他人に対してどうしようもない嫉妬だってする。

 おそらく「普通」の凡人側である大多数の観客もまた、どちらかといえば、平手さんが演じる天才である「響」が主役の映画ではなく、アヤカウィルソンさんが演じた文芸部長が、本物の天才との出会いによって自分の存在価値に悶え苦しみながらなおも自分の道や価値を見つけるような作品を欲しているのだと思う。「凡人」側の、私たち大多数の人間が、主役となる登場人物が「天才」である映画を観る行為は、(たぶん)苦しい営みであると思う。

  しかし、この映画はこれまでに上述してきたように、「天才」が、「普通の人々」をいったんは吹き飛ばして、そして包み込むように巻き込んでいくことに観客が、自分の人生を重ね合わせてカタルシスを感じることができる映画だった。さらに、一部のネット上の評価では、「天才がただ無双するだけの作品なんてつまらない。」といった意見もみられたが、この映画で特筆すべき点として、響との関係では「非天才」として「持たざる者」として取り扱われている、部活では響の先輩にあたる文芸部長である凛夏役のアヤカ・ウィルソンさんの演技とキャラクターの掘り下げ方、演出が本当にとてつもなく素晴らしかったことに言及しておかなければならない。

 アヤカ・ウィルソンさんが演じる祖父江凛夏は、響が新入生として入部する文芸部の部長である。村上春樹をおそらくモデルとする人気作家を父に持つ凛夏は、ネットに掲載していた小説を出版する際に、響の担当編集でもある「ふみ」から、ネット上のペンネームではなく、祖父江凛夏名義で出版することをそれとなく薦められるが、そのふみの提案に対して、「あ~なるほど。」と言った後に言葉を失うのだが、その凛夏の姿はあまりにも切ない。そのシーンの後で、彼女は、もし自分が文芸誌の新人賞に応募したら受賞できるかを「ふみ」に聞いたところ、下読み審査などで落とされることはないが、あとは審査員の好みよ、と濁されてしまって苦笑いする凛夏の姿は、あまりにも痛々しくて、私は目を背けたくなった。その痛々しさは、アヤカ・ウィルソンさんの声がcharmingであることで、一層、際立っている。そして凛夏が、まさに文字どおり、地獄に突き落とされるのは、それまでに響と電話でしか会話をしたことがなかった「ふみ」が、たまたま凛夏の家に遊びに来ていた響の存在に気づいたときに、言い放った「あなたの才能なら必ず新人賞取れる」という言葉を聞いてしまった瞬間だ。凛夏は「ふみ」の言葉を聞いて、苦しそうな表情を浮かべる。その表情に、僕も苦しくなった。凛夏の苦しい時間は、それからしばらくの間、たぶん映画の中盤の終わりまで続く。アヤカ・ウィルソンさんは、乾いた(渇いた)苦し紛れの微笑みを漏らす女性の演技が得意なのかもしれない。いちばん胸が痛かったのは、彼女が、響に「私みたいな凡人にかまってる暇はないよ。」「もういいよ。私はあなたみたいに書けないし、天才じゃない。」と言うシーンだ。スクリーンの中で凛夏が、空元気で明るい声や笑みを搾り出したりする弱々しい姿は、観客であるこちらの方まで辛くなってしまう一方で、他方で、凛夏が北村有起哉さん演じる芥川賞作家の心無い中傷に対してタメ口で言い返したり、友人である響の才能に押し潰されないように、負けないように前に進もうとする姿に、とにかく彼女を応援したくなる。

 重要であるのは、この映画がそんな彼女もまた、自分が小説を書く理由をしっかりと確認するストーリーになっているという点である。つまり、端的に言うと、響という一人の「天才」が、単に無双するだけの映画として作られていない。特に「書き手」として登場するキャラクターの多くが、前向きに、響との出会いを通じて「作家としてなぜ小説を書くのか、という理由」や「これからの人生にとっておそらく重要な『気づき』」を獲得する映画になっている。

 また、響の担当編集となる、ふみ役の北川景子さんの演技も素晴らしかった。幻冬舎見城徹さん、石原正康さんを文芸編集者のイメージとして形成している私にとって、北川さんの演技、特にふみが響と初めて電話を介して言葉を交わし、響が執筆した小説に対する「過剰」とも形容できるほどの身振りと声で感想を伝えるシーン、担当編集として作家を幾度も守ろうとするシーンでのふみの姿は、私が抱いている文芸編集者のイメージそのものだった。(余談になるが、映画のスタッフロールの取材協力に幻冬舎もクレジットされていた。)

 僕は、この映画を本当にお薦めできる。いまの自分自身の「生き方」にそれなく自己に対する「半端さ」や「自己嫌悪」を感じている方、もしくは過去に感じていた方に、特にお薦めしたい。この記事では多くのネタバレを含むものとなってしまった。しかし、当然のことを確認することになるが、一個人に過ぎない私が文章で感想を述べたものと、実際に劇場で映画を視覚で観て、耳で聴いて、心で感じることとでは全く異なった経験となる。

 最後に一つだけ。凛夏が担当編集である、ふみの赤入れ(修正の要望)によって、修正していくうちに自分が何を書きたいのかわからなくなったと響に本音を告白するシーンがある。その凛夏に対して、響が、担当編集の駄目出しに応じて、修正して書いたら凛夏の責任でしょ、だったらあなたの責任よ、と追い討ちをかける。

 僕は、響の言うとおりだと思う。だが、凛夏の言い分も痛いほど理解できる。僕も、研究の進捗報告で駄目出しをされる度に、そのアドバイスに可能な限り、応えてきたと考えている。そのアドバイスに素直に従っていること自体に、自分の存在意義はどこにあるんだろう、と自問自答することもある。まだ研究者としての1人前ではない院生にとっては、指導してくださる指導教授の存在とアドバイスの価値はあまりにも大きく、どうやって自分の「色」を出していくか、残していくかについて試行錯誤を重ねてきたし、悩んできた。またより根本的な問題として、「先生のアドバイスに可能な限り、応えてきた」と考えていても、実際には、そのアドバイスを正確に理解できておらず、結果として私の論文(研究報告)として出来上がったものは、擁護のしようがない惨憺たる成果物となったことも、幾度もある。まさに、凛夏さんの状況に陥った状況を、私は何度かすでに経験している。

 劇中での響の言うとおり、著者としては、ある論文執筆についてのアドバイスを受け取るのも、受けとらないのも執筆者に委ねられ、またそのアドバイスを受け取るとしても、そのアドバイスにどのような表現と論理をもって返答するかは、執筆者の腕に委ねられているわけであるから、自分の名前で書いて、提出し、公表した後に、他者を理由に、自分でも何が書きたいのか分からなくなったと言い訳することは一切、許されないと思う。

 「著作者」としての、あるべき態度を提示してくれる作品であると思う。

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追記)初めて利用した映画館で、焦って席を取り違えたせいで、一回目は最後列になってしまったので、だいぶ悔しかったので次の日の朝1番の上映で最前列で観ることにしたのですが、二回観るのであれば、台詞や映画で気になってたことをメモ用紙に書きとどめようと思って記録したメモが、このブログの文章の資料となっています。

 ただ、二枚目の画像を見ていただけると理解していただけると思うのですが、書き殴り状態のメモになってしまったので、このブログで引用符「」付きで、映画の台詞であるとして言及している言葉の中には、ほぼ間違いなく、練りに練られた映画の脚本の正確な台詞とは異なる、不正確な引用が散見されることになるとは思いますが、ご容赦していただければ幸いです。

追記の追記 9月27日)

 「響 HIBIKI」の月川監督と主演の平手友梨奈さんが対談された『Cut』10月号を購入して読みました。一言だけで言うと、もっとこの映画が好きになりました。

 ただ、一点だけ、個人的にうわああああああああああああってなったのが、インタビューで言及されている台詞で、自分の映画館での台詞メモの誤りが証明されてしまった点です。インタビューで、脚本の響の台詞を一つ一つを話し合いながら練って作られたという経緯が語られていただけになんというか、本当に申し訳ないと思う次第であります。小学館から文庫も出てるし、購入した上で訂正すべきかなあ、と思ったんですけど、これはこれで生の感想でいいのかなっと思って残すことにします。