研究者を目指すという熱病

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研究と趣味

 最近、なんとなく趣味のジョギングに逃げつつある。ジョギングをしている最中は、研究のモヤモヤから逃れることができる。そのことを、親しい人から「それは、本業の表(=ここでは研究)のことができるようになって、ほかの事にエネルギーを注ぐ余裕ができたことだよ。」と慰められた。彼は好意をもって、その言葉を言ったのだと思う。

 だが、その言葉を俺は素直に受け取れなかった。勿論、俺も20代も半ばに入って、「自分のことは常に理解しておいて欲しい」「察して欲しい」などといった、思春期(?)に抱えうる自己愛もセンチメンタリズムとも別れを告げたから、「そうかもしれないですね。」と相槌を打って、黙って耳を傾ける。何より、相手の好意を無碍にしたくはない。

 しかし、本音では、趣味に時間を使うことを俺は、研究からの逃避だと考えている。現実に折り合いをつけながら、研究の苦しみや孤独から逃げるように週に2、3日、貴重な1日の数時間を趣味に費やし、本来であれば研究に昇華し、研究で解消すべき苦しみを、その趣味を通じて解消しようとする自分の姿に、日々、自己嫌悪を感じている。その姿は、シャンパーニュで癒すべき渇きを、ドラッグストアで売られているチリ産のスパークリングワインや、道端の自販機で売られているチェリオのジュースで癒すようなものだと思う。

 もちろん、息抜きの時間を作ったのは、精神的に潰れてしまうよりはましだと考えた自分自身だ。「自分には研究以外には何も残らない、楽しいことも(研究以外は)ほとんどない)」ことを強いながら、研究を続けるほどの強さを自分は持っていなかった。研究さえできれば、それ以外は何も要らないわ、と考えることができるほどの才能も持っていなかった。だからストレスを解消するための時間を作るようにした。

 自分でそう決めたことなのに、それでも、このままでよいのか、と毎日、自問自答する。自己嫌悪の毎日だ。

 時折、勉強のことだけを考えて生きていた、真っ直ぐだった時期を思い返す。あの頃、このまま勉強し続ければ、どこまでも高みに登っていくことができたような気がした。

 これから、自分の能力をこんなものだと決め付けて折り合いを付けて生きていくのは嫌だ。しかし、自己嫌悪を感じている自分と訣別して生きていくこともできるかも分からない。

 でも、できるだけ前向きに立て直したい。

 

 

 リンクした本は、歴史学者であり、歴史のために生涯を捧げた入江昭先生による自叙伝となる一冊。高校生の頃に出会ってから、何度も読み返している大好きな本。