研究者を目指すという熱病

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大学院での生活 雑記②

 今回の記事も、表題のとおり、大学院での生活について思うがままに自由に書き連ねていくという形式で投稿してみたいと思います。とはいえ、もしこのタイトルに付け加える形でサブタイトルを付けるとすれば、「所属院生数の減少について」ということになるかと思います。

 さて、私が所属する法学研究科の大学院生の数というのはあまり多いものとは言えません。例えば、私がM2(前期博士課程2年生)に進級した時に後輩が入ってくることを期待していたのですが、しかしながら、入学者は1名もいませんでした。その後、後期博士課程に進級した4月に、同期にあたるD1(後期博士課程1年生)の院生が1名入ってきてくれたものの、後期博士課程の入学者及び内部進学者はここ3年間、その1名を除くと、誰も入学してくれませんでした。つまり、いまD3の私たちの後輩にあたるD2とD1生が誰もいない状況になっています。自分の属する大学のことを褒めるのは恥ずかしいことですが、歴史のある大学としては、あまり元気のない状況だと言わざるを得ないのかもしれません。また、ここ2年程前までは、前期博士課程の入学者も少ないと言わざるをえない状況でした。

 さて、このように所属院生数が減ってしまうことにより、次のようなことが考えられるのではないかと思います。

 まず、専攻する専門によっては、大学院において一人きりで研究しなければならなくなるということです。幸いにして、私には同じ専門に二人の先輩がいました。彼ら/彼女らには、例えば、ドイツ語の読み方から、議論の組み立て方、研究の進め方、そして、大学院の生活にまつわるあらゆる豆知識に至るまで様々なことを教えて貰えました。そういった知識が、今の自分の血肉になっていることは間違いありません。また、研究がしんどい時期に一人きりではなかったこと――喋り相手がいたことは、とても重要なことでした。

 しかしながら、もし基本的には一人きりで学ばなければならないとすると、孤立した状態の中で、悩まなくてもいいことにくよくよと悩んだり、語学の学習や研究の進め方等に関する実際の経験に裏付けられた、先輩というより近い立場から教えて貰えるノウハウを知る機会を院生が失ってしまうのではないかと思います。それゆえ、先輩・後輩・同期といった関係を切り結ぶことのできるだけの院生がたくさんいた方がよいのではないかと思います。

 また、もし所属院生数が減ってしまった状況だと、自分の専攻領域と隣接する専門領域を研究する院生が一人もいないという状況が生じうるということが考えられます。実際、もし私が民法を研究している時に国際私法の知識が必要となった場合に、同じ研究室(院生部屋)や隣の研究室に、国際私法専攻の院生が在籍していれば心強いことは言うまでもありません。実際、私も自分の研究を進める過程で、もし刑事訴訟法、刑法、並びに憲法専攻の院生が在籍していれば、心強かったのになと思うことが少なくありません。しかし、うちの大学院にはそれらを専攻する院生は残念ながらいませんでした。もし、そうした院生がいれば、自分の研究がより捗っていたのではないかと思います。というのも、他専攻の人間にとっては、当該専門領域の標準的なテキストが何であるかというだけでも重要な情報ですし、あるいは、自分が初めて遭遇した他領域のテクニカルタームの標準的な訳語や、はたまた、自分が知りたいと考えている法学上の知識をピンポイントで知っているかもしれない院生というのは非常に貴重な存在だからです。このような理由から、所属院生数が少ない状況には一定の弊害と呼ぶべき状況があると指摘できるのではないかと思います。

 最後に、院生数が少なくなってしまうと、人間関係が良い意味でも悪い意味でも濃くなりすぎてしまうのではないかと思います。これは、多様性が乏しくなる、という言葉でも置き換えることができると思います。

 月並みな言葉かもしれませんが、僕は、留学生と接していると、「研究をがんばろう」という気持ちをより抱くようになります。それは、わざわざ日本まで来て大学院に研究しに来た彼らの挑戦的気概に触発されているというシンプルな話だと思います。また、定年してから大学院に入学された社会人の院生の方には、ホッとした気持ちを抱かせて貰えるような言葉を何度もかけて貰えました。

 この個人的経験を基礎にすると、例えば、留学生かそうでないかを問わず、(学部生上がりの)院生か社会人院生かを問わず、色々な背景を持った人に大学院に来てほしいと(現役の院生という立場でやや上から目線かもしれませんが)考えています。

 

 さて、冒頭で述べたとおり、うちの大学院ではとりわけ後期博士課程の所属院生数が非常に少ないわけですが、しかしながら、ここ数年の間、修士課程の院生がたくさん入学してくれるようになりました。率直に言って、とても嬉しく感じています。特に、同じ専攻に2名の新入生が入学したり、異なる専攻の院生が複数参加するゼミがより増えたことにより、(私もそうしたゼミに参加することで刺激を受け、また先輩から多くのことを学んだので)あるべき活発な大学院の姿を取り戻しつつあるのではないかと思います。

 さて、ここ10年近くの社会状況を一瞥するだけでも、例えば、リーマンショックを契機とする「学生の安定志向」により――私の学部時代の周囲は公務員志望者がかなり多かったです――、そして今後、コロナウィルスによって強められた経済不安により、大学院を志望することが中々難しくなっている時代が来るのではないかと思います。

 しかしながら、社会における複雑な問題をそのまま俯瞰して捉え、分析した上で問題解決のための解決策を提示することができるようになる大学院に価値を感じて、入学してくれる学部生や修士の院生が多く現れて欲しいと考えています。私の場合は、学部と大学院という場で、人生を変えてくれたと思えるような指導教授をはじめとする様々な人との出会いを得ることができました。

 そして、現役で大学院に属している院生の視点からの話になってしまいますが、数多くの多様な背景を持った院生が大学院に入学してくれることによって、大学院の研究環境がより充実することになるのではないかと思います。そのために、例えば、学部生にゼミ論文を任意で執筆する機会を設けることにより研究(あるいは研究っぽいこと)を体験してもらうことで研究の楽しみを体験してもらうというような施策を積極的に進めていくというようなことが、考えられるのではないかと思います。

 

追記)

 この記事を書いているうちに、「所属院生数が増えることによる大学院生の恩恵と弊害」という視点になってしまいったことをお断りしておきたいと思います。その限りで、主として年々院生数が減っている大学院に所属されている全国の教員の先生方に対して向けられた、院生を増やしてほしいというメッセージの記事になってしまったかもしれません。

 

大学院での生活 雑記①

 こんばんは。

 本日は表題のとおり、大学院での生活について、特にタイトルを決めることもなく思うがままにダラダラと書き連ねていきたいと思います。とはいえ、この記事のざっくりとした大枠を書くとすれば、「院生(学生)自治組織にまつわる雑記」になるかと思います。

 さて、以前のブログ記事でも書いたとおり、自分は、所属する研究科の院生が強制加入することとなっている院生自治組織の委員長をやっています。本来であれば、D1(博士後期課程1年生)という一番時間的余裕のある時期に、1年間務めるか、あるいは、他のD1の院生に任せることができるのですが、うちの大学院は所属院生数―― とりわけ博士後期課程の院生がきわめて少ないことが原因で、現在のD3まで3年間務めることになりました。ちなみにいまD3なので、もうすぐで今年度の任期は終わることになります。

 中学・高校時代に学級委員長や部活動の役職さえ務めたこともない自分が、大学院に入って、ある程度のリーダーシップが求められることになるとは、正直に言うと、院入学時には想像だにしていませんでした。研究をするために大学院に入学してきたにもかかわらず、例えば、研究の進捗報告などが迫っている時期に、自治組織の総会などをはじめとする行事ごとの準備や事務ごとを行わなければならない時には、しんどいな、と感じてしまうことも少なくありません。そういった事務ごとというのは、大した仕事ではなく雑用に位置づけられるタスクも少なくはないのですが、そういったものが積りに積もっていくと、やはり、自分の頭が爆発しそうになります。というのも、元々、自分はなんでもそつなくこなせるという器用なタイプではありません。

 また、自治組織としてある程度の共同性をもって活動していく以上、そこでは、時折、自治組織の中で決定すべき問題について、意見が衝突することもあります。そうした衝突の中には、健全な意見の対立もあれば、時には、「なぜこの人からこんなことを言われなければならないのだろう」と思うようなこともあります。例えば、相手方の調査不足や事実関係の(認識の)誤りであるにもかかわらず、私の方針や決定に対して強い言葉遣いで反論されたこともあります。委員長を務めてさえいなければ、こんな嫌な出来事には遭遇しなかったのではないかと思うことさえあります。

 さらには、出席の必要な行事に現れなかったりする院生が出てくるなど、のちに話を聞いてみるとやむを得ない事情があった場合も含まれるのですが、私にとっては予期せぬ出来事から心配で頭が埋め尽くされる出来事が起きたりもします。

 

 以上のような、しんどかったこと、困ったことを挙げていくとキリがないような気がします。それでも、自分が院生の自治組織の委員長を続けてこれたのは、次のような理由があるかと思います。

 まず、私の前々任者にあたる先輩(私がM1の時の委員長)が、自治組織を情熱的に率いてくれていたことを挙げることができると思います。彼らのおかげで、私が院に入学してからのうちに、私たちたちの研究環境はずいぶん良くなりました。その事実が、委員長の引き受け手が他に見つからない中で3年間もの長い間委員長を務めるということを後ろ支えしてくれたと思います。正直に言えば、―― メンタル的にそれほど強くない自分にとっては――かなりストレスのたまる出来事に遭遇することもあったのですが、彼らのおかげで、大学院生の在籍数が減少し、本来であれば自治組織の執行部を支える博士課程の院生が減ってしまっても、その活動をストップさせずに次の世代に繋げるようがんばってこれたのではないかと思います。少なくとも、今後、研究環境が著しく悪化したり、あるいは、アカデミックハラスメントといった問題が生じた場合に備えるためにも、自治組織の活動を自分のできる限りの範囲で維持してきたことには意義があるのではないかと考えています。

 また、これは今から振り返ってのことなのですが、委員長を務めることで、他の院生と関わる機会をより多く持てたのではないかと考えています。うまくいく人間関係もあれば、うまくいかない人間関係もありましたが、月並みな言葉ですが、様々な価値観やその人の個性である長所・短所にふれながら様々な院生と関わりあった経験は、自分にとってプラスになるものでした。そしてまた、ある意味では忍耐を覚えることもできましたし、自分の中にこのような寛容さがあったのか、と自分自身で驚くこともありました。彼ら/彼女らとの関わりを通して、新たな自分自身を発見することもできたのではないかと思います。

 さらに、自分のこれまでの人生の中で、自分が属するコミュニティのために地道な努力をしてくれていた人に対する感謝の気持ちを抱くこともできました。それらの人の中には、例えば、中学や高校時代に積極的にクラス委員などを引き受けてくれた人たちも含まれます。誰かがやらなければならない仕事を率先してやってくれる人の存在というのは、ありがたいことだと思います。

 最後に、自治組織での細かくて、些末で、地味な事務作業を行ったことは、将来、もし自分が幸運にも研究者になれたとすれば、大学における事務にとても役に立つのではないかと考えています。

 このように考えてみると、大変でストレスフルなこともありましたが、自治組織の委員長を務めた経験は、――実のところ次の春季総会まで任期があるので振り返るには早いかもしれませんが――自分の人生の糧になっているように思えます。そして、つい直前ですでに述べたとおり、いつかこの経験を実際に役に立てるように、つまり、研究者として大学に就職できるように、日々の研究を精進したいと思います。

 今日はそういう雑記です。今日書いたことが、これをお読みになられた方にポジティブな言葉に映っていれば嬉しく思います。

ストレス解消法

 お久しぶりです。

 今日は、個人的なストレス解消法について書いてみたいと思います。このブログをお読みくださっている方の中には、ふっと息抜きをしたいけれども良いストレス解消方法が中々見つからないという方もおられるのではないかと思います。そこで、今回の記事では、僕が編み出したストレス解消法を書いてみたいと思います。

 さて、ストレス解消法というのは、夜遅くの誰もいなくなった(市営)グラウンドを爆音で音楽を聴きながら自転車を漕いで走りまくるという方法です。この方法であれば、車道におけるように事故の心配をする必要なく、風の気持ちよさを身体に感じながら自転車で爆走することができ、かつ、道路ではなくグラウンドなので心ゆくまま―― 道交法に違反することなく――  音楽を楽しむことができます。

 信じられないかもしれませんが、自転車を全力疾走させて風にあたっていると、不思議と、ハイな気分になっていきます。風の声を聴いていると―― 音楽をイヤホンで聴いていても風の音は聴こえてくるのですが、普段の悩み事が風といっしょに吹き飛んでいきます。ペダルを漕ぐごとに、心拍数が上がり、汗ばんでいき、次第にびしょ濡れになりながらも身体が火照(ほて)っていくうちに、いつの間にか、普段は悩み事でいっぱいになっている頭が、そんな憂鬱なことを考えることすらできないくらいにペダルを漕ぐことに夢中になっています。熱くなっていく身体の体温とともに、頭の中に塊としてできてしまった悩みも熱で溶け去っていくのかもしれません。

 そして、自転車を漕ぎ続けてグラウンドをぐるぐると何周も回り続けるという単純な作業に華を添えるのが、音楽です。マンションにもオフィスビルの影にも遮られていない、だだっ広い、そこに自分しか存在しない深夜のグラウンドという空間の中で、月と星の光にだけ照らされながら音楽を聴いていると、普段せまい自室や他の乗客も乗り合わせている通学・通勤電車の中で聴いている時とは明らかに異なる解放感と高揚感を楽しむことができます。そして、自分だけの居場所がこんな場所にもあるということを実感できます。

 おすすめのストレス解消法なので、ぜひ試してみてください。

 ただ、夜風にあまりに長い時間あたってしまうと、風邪をひいてしまうこともあるので、あたたかい服装で試してみてください。

 

 最後に、今年の夏に読んだ本の中でいちばんよかった小説のAmazonアフィリエイトリンクを掲載させていただきたいと思います。論文執筆のためにレビューする時間もありませんが、おススメの本です。

フィッシング詐欺に騙された男の翌日

 昨日、フィッシング詐欺に騙されたことに気づいた男にも、朝はやって来た。

 今朝、いつも通り研究しようと思ったが、詐欺に騙されてしまったことで気落ちした感情をコントロールすることができずに、気分転換のために地元に存在する山を目指してサイクリングに向かった。

 いま、私は、実定法(法学)を専攻する後期博士課程の3年生である。

 標準年限内に論文を提出するには、12月に博論を提出する必要がある。

 立ち止まっている暇はない。研究は佳境に入っている。

 私の論文の大まかな構想について、とりわけ、すでに読み終えたドイツの法学文献(ドイツの先行研究)から得た知見が、日本法の解釈論にどのような意義があるか、ということについて、これまで私なりに考えてきたことを聞いてくださった先生の1人からは、「(提出する価値のある)論文になる」という言葉さえ、いただくことができた。心配ばかりかけてきた指導教授の先生にも、(つい数か月前と比べると)かなり安心していただけている状況まで辿り着くことができた(と思う)。

 先生方の暖かい言葉をそのままありがたく受け取る限りでは、私がやらなければいけない作業は、すでに読み終えている文献(先行研究)をさらに精確に読み直した上で、そこで得た知見を正確に分析し、まとめあげる作業である。また、今の時点で、未だ積み残している文献があるので、この文献をしっかりと読まなければならない。

 論文の提出までに行わなければならない作業は山積みとはいえ、提出までの道のりは、かなり明確になってきたといえる。

 この状況とは対照的に、少なくとも数か月前の時点では、(もちろん)大まかな研究テーマこそ決まっていたものの、しかしながら、その研究テーマの中で、これまでに調べてきた研究上の知見が日本法の解釈論にとっていかなる意義を持ちうるかについての考察が甘かったので(つまりもう少し具体的に説明すると、なぜ、ドイツ法の議論を比較法の方法で研究することを選択し、そのドイツ法において蓄積された知見が日本法にとっていかなる解釈論上の意義を持ちうるかについての考察が甘かったので)、具体的にどのような論文を書けばよいのか、迷走していた。この数か月前までは本当に、色々な資料に闇雲に手を伸ばしていた。

 

 そういった迷走期があったことを考えると、今の状況というのは、少しずつ、少しずつ、はっきりと見えてきたゴールに向かって、走り続けるだけだといえる。

 

 それにもかかわらず、詐欺に騙されたことで沈み切った心を、今日1日を通じて、普段の状況に戻すことはできなかった。

 明日から、普段の自分を取り戻したいと思う。 

 自分は本当に大馬鹿野郎だと思う。

 自分のことを馬鹿だと思うのは、フィッシング詐欺に騙されたからだけではない。

 もう戻れない過去のことを、今もくよくよと悩んでいるからである。

 

 もう終わったことはどうしようもない。

 明日から、がんばろうと思う。

 ゴールは、(たぶん勘違いじゃないはずだから)もう見えている。

 

 Amazonアフィリエイトリンクを貼ったのは、最近、買った銀色夏生さんの詩集です。本書の中で 一番好きな詩は、120頁の「新しい星」という詩です。 同じ目標を抱いて、同じ時間を過ごし、将来を語った友人や先輩、上司などが突然、その目標を諦めてしまったり、自分(たち)が大事にしていたはずの価値を否定するような行動や言動をとった時に、 そのことに、悲しさや怒りを感じた経験は誰にでもあるのではないかと思います。

 そういった私自身も抱える数年越しの辛さを救ってくれたのが、この詩でした。

 お薦めです。

フィッシングメールの詐欺に騙されてしまった件

 今朝、父名義の家族カードとして私が契約しているクレジットカード会社から、身に覚えのないクレジットカードの使用についての通知メールが届いていることに(父が)気づいた。その通知メールによれば、ある早朝の5分間のうちに、518円のカード利用が連続して5回あったらしい。合計2500円程度の買い物が行われていたらしい。

 しかしながら、私は父の家族カードとして契約していたそのクレジットカードを一度も使用したことがなかった。つまり、このカードで買い物をしたことは一度もなかった。

 このクレジットカードについて身に覚えがあったのは、強いて言えば、「Amazonプライムの支払い方法に問題がある」というメールがスマートフォンに送信されていたので、その案内に従い、クレジットカードの番号、セキュリティコード、名義人を登録してしまったことだけだった―― そのメールがまさにフィッシング詐欺だったのだが。

 

 それゆえ、上記のクレジットカードの利用に身に覚えのなかった私は、今朝すぐにクレジットカード会社のサポートセンターに連絡することにした。

 

 クレジットカードのサポートセンターの親切な従業員の方への照会を通じてわかったことは、私が間違いなく、Amazon公式サイトを騙ったフィッシングメールの詐欺に引っかかってしまったということだった。

 私が自分のクレジットカードに関係する個人情報をフィッシングサイトに記入してしまったすぐ直後に、フィッシング詐欺犯によって海外通販サイトにおいて518円×5回分の買い物が行われていたらしい。

 それだけでなく、CHANELの通販サイトにおいても2万円程度の買い物が行われる寸前だったらしいが、しかし、CHANELの通販サイトはクレジットカードの不正利用が頻繁に行われているらしく、当該カード会社のセキュリティ対応により、不正利用が未然に防がれたようだった(クレジットカード会社に大感謝である)。

 それゆえ、今のところ判明している不正利用の被害額は、おおよそ2500円である。

 カード会社のサポートセンターの親切な担当者によれば、不正利用されたお金については保険が効くらしく、私に請求が来ることはないらしい。

 正直なところ、被害額がそれほど大きくなかったこと、不正利用された代金の請求が保険条項により免責されることに安堵している。その感情と共に、フィッシング詐欺に騙されてしまった私の代わりに請求額(不正利用された買い物代)を肩代わりしてくれるクレジットカード会社に申し訳ない気持ちも大きい。

 なんというか、私は人生において自分自身が詐欺にあうことはないだろうと過信していたので、自分自身の馬鹿さ加減に呆れている。

 不正利用されたクレジットカードは止めることができたので、被害が、これ以上大きくならない、あるいは現在認識している被害額よりも大きくなっていないことを祈っている。

 

追記)

 フィッシング詐欺に引っかかってしまったのは、ちょうど研究の進捗報告が終わりドッと疲れが身体に押し寄せていた時期だった。また、その直後に院生自治組織の総会を控えていたので、心理的にもストレスが続いていた時期だった。

 今思い返してみると、「Amazonプライムの支払いに問題がある」というフィッシングメールが私のスマートフォンに届いた時、面倒なタスクはさっさと済まてしまいたいと、あまり考えずに、詐欺に引っかかってしまった。

 心にまったくゆとりがなかったのだと思う。

 このブログを読んでくださっている方は、私よりも賢い方が多いかもしれませんが、皆さんも気をつけてください。