研究者を目指すという熱病

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父の身体②

 父は膵がんでした。

 本格的な治療の方針を立てるために、正式に検査し、これから治療が始まるようです。コロナウィルスによる医療機関の混乱も相俟って、予約を取ったり、入院することにさえ、かなりの時間がかかっている状況です。父には、できるだけ長く生きてほしいと思っています。

 父に関して、ちょっとした話をしたいと思います。

 定年退職後にシルバーとして働いている父が、膵がんの可能性が濃厚となり、最後に勤務先に出勤した日に、ちょうど人身事故がありました。その出勤前に、父は自分の入院準備をしている際に涙を見せたそうです。

 私は、――人身事故という帰結に至ってしまった人に対して酷なことを言うことになるかもしれませんが――明日を、少しでも長く生きたくてたまらない父のような人がいるなかで、自ら命を絶ってしまう人もいることに、不思議な感情を覚えました。

 私は、みんなに生きてほしいと思います。

 父も、人身事故により自ら命を絶ってしまいたくなるほど精神的・経済的に追い詰められた人も。

 

 

本の紹介)

 私は、ゲーテ高橋義孝訳〕『若きウェルテルの悩み』(新潮社、1951年)が好きです。本書は、主人公のウェルテルが友人ヴィルヘルムに宛てた書簡を中心に物語が構成されているのですが(時折、ウェルテルが恋するロッテへの書簡や、さらに終盤にはこの書簡を記録する編者という物語上の語り手によって小説としての物語が進行していくのですが)、そのヴィルヘルム宛の書簡の中でもとりわけ、8月10日の書簡(64頁以下)に、僕は感銘を受けました。その書簡は、物語上、主人公ウェルテルが、彼が激しい恋に落ちたロッテの婚姻相手であるアルベルトと自死について議論する場面となっています。

 まず、アルベルトは、自死について、「いったい人間はどういうつもりでまあ自殺などという愚を犯すのかね」(67頁)、「なにしろ自殺は弱さにすぎんのだからね」(69頁)と、自死について否定的に述べます。

 これに対してウェルテルは、「(略)なぜってぼくらは共感するかぎりにおいてのみある事柄を論ずる資格があるわけだから」と述べたうえで、「人間の本性には限界というものがある。喜びにしろ、悲しみにしろ、苦しみにしろ、ある限度までは我慢がなるが、そいつを超えると人間はたちまち破滅してしまう。だからこの場合は強いか弱いかが問題じゃなくて、自分の苦しみの限度を持ちこたえることができるかどうかが問題なのだ。――精神的にせよ、肉体的にせよだ。だからぼくは自殺する人を卑怯だというのは、悪性の熱病で死ぬ人を卑怯だというのと同じように少々おかしかろうっていうんだ」(70頁、71頁)と精神的理由から自死に至った人間の存在を情熱的に(結果的には自己)擁護します。

 本書の原書は、1774年に刊行された古典に属するものですが、しかしながら、上記の一節が放つ痺れるようなメッセージからも明らかであるとおり、現在においても読まれるべき小説だと思います。というのも、現在の日本も、心の病を抱えていたり、メンタルヘルスに問題を抱えている悩んでいる人に向かって、「(心が)弱い」と辛辣に言ってしまう人が多く属する社会のように思えるからです。少なくとも私は、メンタル的におかしくなっていた時期にそういった言葉をかけられたことがあります。そのことを思い出すと、もしあのときにあの場所で、ゲーテによる上記の一節と、高橋義孝先生による名訳を知っていれば、と思います。18世紀のドイツにすでに自分(たち)の味方となり、そして生きるための武器となってくれるゲーテという人がいたのだ、ということ自体が救いになってくれるように僕には感じられます。本書の主人公ウェルテルは悲惨な帰結を迎えることになるのですが、それでも本書は、私たちが生きていくためのヒントが数多く詰め込まれた1冊だと思います。

 ただし、作中におけるウェルテルは非常に悲惨な、最悪の結末を辿ります。この記事をきっかけにして、本書を手に取ってみようとされる方にはネガティブな心情になってほしくはありませんので、本書を手に取る際には心してかかる必要があります。明るく元気が出るような作品では決してありません。