研究者を目指すという熱病

 本ブログの記事の内容にご質問などがあれば気軽にコメントしてください。

受験生や学生であることに引け目を感じるということ

 今日は、少しだけ私の話をしたい。私は、法学部に編入してから、民間の事業会社に就職するか、公務員試験を受験するか、散々迷った挙句、就職活動を行ってみたものの、企業の説明会を回り、また時には東京の新宿ターミナル行きの夜行バスに揺られて、幾つかの就職試験を受けた。だが、私の場合は、研究者を目指して法学を続けたという気持ちを大学に入学した最初から抱いており、結局、当時のゼミの、現在の指導教授に相談し、大学院に進学することにした。

 だが、例えば、私がこのブログの最初の記事で啖呵を切って、「学者になるだろう」と宣言できるほど、甘い世界ではない。むしろ、毎日のように、大学院に行くことに文句を言わずに受け入れてくれた家族に、後ろめたさとやりきれなさと、何か嘘をついているような、すなわち最初から儲かる可能性が限りなく低い金融商品を堂々と売りつける証券会社の営業員が抱えているのではないかと思うような気持ちで、毎日を、過ごしている。もちろん、全力は尽くしている。

 だが、そうはいっても、二人とも高校卒業と専門学校卒業で、実際に大学のキャンパスに一度も踏み入れることもなかった私の両親が、インターネットで検索でもしない限りは、研究者を目指して大学院に進学することのリスクや、目標を成就できる可能性を知る由はない。

 だから、何となく、私は、自分がどのような日常を大学院で送っているかについてさえ、知らない両親に対して、「研究者になれるかは、わからんよ、やめてく人も多いから」、とか場合によっては強がって「研究者になれるよ」などと言う度に、何か嘘をついたときと同じような、胃の中を錘を付けたミニカーがずんずんと走っているような、重い痛みを感じるのである。

 また、20代半ばともなり、電機屋にいけばクレジットカードの入会を勧められ、梅田では所得・納税などに関するおそらく民間企業による街頭アンケートをお願いされ、腹と顔にたっぷりと肉が付いてしまった私が、普段、同世代の多くがスーツを着込んで通勤する様を視界に捉えながら電車に揺られて通学するときには、ぽっかりと何か私だけ浮いているような気持ちになる。

 勿論、こうした痛みを感じるとしても、前に突き進んでいくエネルギーに変えていかなければならない。立ち止まってはいられないからだ。自分で決定したことだからだ。

 話を戻したい。このブログを読んでくださっている方の中にも、お金を出して予備校などに通わせてくれているが、ご両親自身は大学受験を経験しておらず、受験生のあるべきすごし方や模試の成績などによって判断できる合格のための相場観を持っていない受験生がいるかもしれない。

 そして、模試の成績が壊滅的だったにもかかわらず、無邪気に(これは皮肉ではない)ご両親から、「合格できそうか?」と問われ、本当は厳しい状況であっても、「まあまだ時間あるから大丈夫」、とか「合格できるよ」と、自分の内心とは異なる、言葉を思わず言ってしまった方も、中にはいるのではないかと思う。もしかすれば、罪悪感を抱えながら受験生活を送っている人もいると思う。

 また、みなさんの同世代たちが、彼らの望んだ大学に入学し、あるいは卒業した姿に対して、自分にはなぜそれができなかったのか、と苦しみと嫉妬をもって、編入のための受験勉強を進めている人もこれを読んでくださっている方の中にはいるかもしれない。

 だが、私が達した結論を言いたい。受験生であれば受験が終わり、あるいは大学院生であれば研究者になれずにあきらめたとしても、30年ないし40年の時間が残っている。その間、やはり、働くことになるだろう。そこで、少なくとも両親が生きている間の少しの時間だけでも、十分に恩返しできるのではないか、というのが私の結論だ。給料が、20万円、30万しかなくとも、例えば平日に休みをとれば、それなりに良いランクのホテル・旅館に一人、数万円で宿泊することができる。10万円も貯金すれば、それなりにいいホテルに泊まり、おいしい食事とワインを飲めるのだ。

 また編入に合格できれば、自分が望む、学問に取り組む機会を存分に与えられ、色々な、個性を持った人に出会うことができる。

 こうした楽しいことは、本当に無数にある。そして受験生、学生である期間など、その後の人生に比べれば、本当に短い。チャンスは、編入制度自体が一般受験との関係でそうであるように、何度でも来る。それを忘れないでほしいし、私は忘れたくない。