研究者を目指すという熱病

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夏休み、そして自分の課題

 研究の進捗報告も終わり、ようやく夏休みに入った。前期は、昨年に引き続き3つの院ゼミに参加していたので少々、くたびれてしまったが、それでもこの半期ほど自分の成長を肌で感じ、他方で自分の弱点が赤裸々に晒された4ヶ月はこれまでにあまりなかった経験だと思う。

 今日は、自分の備忘録というか、自分がとりわけ学部生の頃にトレーニングしてこなかったことを、書き連ねて、ここに整理しておきたいと思う。したがって、誰かに読んでいただくことを前提とするブログというフォーマットに投稿するにもかかわらず、この記事の内容は、自分の備忘録として書くので、他の記事と比べて論旨不明確となりうることを先に断らせて頂きたい。

 私は、3年次編入生として法学部に編入したので、卒業のために取得しなければならない単位との関係で、とにかく短期間で単位を90ほど搔き集めなければならなかったのだが、学部卒業時にもらった成績証明書に記載された成績は、それなりに良かったと思う。

 少なくとも私の大学(のレベル?)では、成績をとるのは、それなりに簡単だった。たくさんの基本書・体系書・教科書を買い込んで、色々な学説・判例の表層的な対立・批判を大量にインプットした上で、テストにそれを再現するだけだった。それさえ出来れば、採点者の先生は「よく議論を知ってるね~」といった趣旨で、私の所属する大学では最高評価であった「優」を、おそらくつけてくれたのだと思う。自分の頭を使って解かなければならない試験問題がなかったといえるかもしれない。少なくとも私は、「精神論と根性論で大量にインプットする」という態度で、法学に取り組んできた。

 しかし、学部時代の以上のような法学に対する取り組み方によって、ある能力の欠如を、院生になり、より現実かつ、切迫した形で感じている。

 その能力を一言で表現すれば、学説や判例の議論を正確に理解し、それを端的にアウトプットする能力である。もう少し詳しく言えば、教科書や判例に、一見して淡白に記述された文章を、正確に読み取って、この議論がいかなる具体的事案を念頭において、いかなる学説・判例の状況の中で必要になったか、登場することになったか、著者は当該論文で何をしようとしているか、といったことを立体的・構造的に理解し、その議論の一番、大事な部分を一行、二行で端的に説明することができるか、という能力だ。

 この能力を磨くトレーニングを、少なくとも、指導教授になって頂いている先生の(学部)ゼミに4回生のときに参加するまで十分に鍛えてこなかったし、繰り返しになるが、院生となった今、この能力の欠如をしばしば感じる。なんとか乗り越えなければならない課題の一つである。