研究者を目指すという熱病

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素敵なエッセイ

 表題のとおり、素敵なエッセイを見つけた。
bunshun.jp

 エッセイの2段落目、3段落目の文章が、心に残る。

 少しだけ引用したい。

 

 「とはいえ、大学が近所にあると良い事もある。何よりも好ましいのは、彼らの「生き様」を毎日目の当たりにできる事だ。仕事で大学教員をしていて、近所でも大学生を見たいのか、という人もいるだろう。しかし、彼らの行動は教室の中と外では違う。教室の中では良い子にしている学生達が、学園祭ではしゃぎ回り、失恋して大声でなきじゃくっているのを見ると、自分自身の若い頃の記憶が鮮明によみがえってくる。

 ましてや、日帰りの東京出張から疲れ果てて到着した、24時を回った自宅の最寄り駅の改札口で、どこかの授業で見たことがある学生さんが、男女で熱く見つめあったりしているのを見たりすると、もうどうして良いかすらわからない。だからこそ、時に終電が去ったホームの陰で彼らを隠れて見守っても不思議ではないのである。最寄り駅の近くには大した施設はない。彼らはこれからどこに行くのだろうか。」

 

 このエッセイの著者である木村幹さんは、大学教員であり、研究者であり、一人のオリックスファンであり、一人の生身の男性である。敢えて「彼」と、3人称を用いたい。彼の文章を読むだけで、学生に対する暖かいまなざしをみてとれる気がした。

 彼は、駅という公共の場所でさえ、押しとどめることのできない私的な男女の、熱情に流されようとする「どこかの授業で見たことがある学生」の姿を、「ホームの陰で彼らを隠れて見守っても不思議ではない」と表現する。同世代の私からすれば「お前らの家に帰ってからよろしく、二人きりで楽しんでくれ」と思ってしまうような、見ていて恥ずかしくなるような同世代の姿を、彼は、限りなく暖かいまなざしと距離感を以って黙って見守る。twitterにおける厳しい研究者としての彼のイメージとは異なる、学生に対する接し方を、少しだけ感じ取れた気がした。

 右で引用した木村さんが紡いだ段落は、以下の言葉で締めくくられている。

「最寄り駅の近くには大した施設はない。彼らはこれからどこに行くのだろうか。」

 先生に見守ってもらえる学生は、幸せだ。

 確かに、そこに、ここに、大した施設はないかもしれない。たとえ、就職活動が成功したとしても、昔のように定年までその組織で働けるかどうかはわからない。たとえ、院試に成功したとしても、研究者として就職できるかどうかはわからない。いま、私たちが立とうとしている地点の近くには、約束された、大した場所などないのかもしれない。どこに向かって行くのかもわからない。まだ22歳だし、まだ24歳だし、まだ27歳だし。

 でも、確かなことは、木村さんのように「最寄り駅の近くには大した施設はない。彼らはこれからどこに行くのだろうか。」と、私たちを見守ってくれる存在がいることだ。その目で、大学の陰から静かに見守ってくれている人がいるのだ。

 そう思った、このエッセイを読みながら。

 このエッセイをブログで紹介しようと思ったのは、きわめて私的な、個人的理由に基づく。もしかすると、ブログで木村さんのエッセイを紹介するという行為自体が、そっと黙って見守り続けるということから、逸脱することになるかもしれない。勝手な自己についてのパブリックイメージが、名前も顔も知らない大衆(の一人である私)に形成されてしまっていること自体が、精神的な負担を無用にかけてしまうかもしれない。

 ただ、あまりに素敵なエッセイだったので紹介したくなった。

 その状況にあるとき、自分ならランニングに行きたい。できるだけ遠いところまで。自分は、一番それがひどかったそのとき、自宅の扉を開く気力さえ起きなかったが、少しでもチャンスがあれば、好きな、楽しかった思い出に包まれた場所まで走りたい。

 そうではなく、つまり自分に対してではなく、誰かに薦めるならば、好きな場所に、好きなだけ、できるだけ遠いところまで、自転車のペダルを漕ぐと思う。