研究者を目指すという熱病

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うつ病と時間

 前回の記事では、私がなぜフルコンタクト空手を辞めたかについて述べた。おそらく、その記事を読んでくださった方の多くが、その過剰な自意識と高慢さを見通して、私のことを嫌いになったと思う(笑)。

 そこで、少なくとも私の主観的なモチベーションという視点では絶頂の時期であった編入直後の暫くの時間から、少し後に到来した地の底まで落とされた時期(主として学部時代の時期)について書きとどめていきたいと思う。

 私は、編入してからしばらく、国家総合職を受験することを考えたり、ロースクールへの進学を考えたり、法学研究科に進学することを考えたり、また民間企業への就職を考えたりと、空手を辞めてから、現実には、かなり迷走した。法学をがんばる、ということの、その先にあるはずの具体的な目標は何も定まっていなかったし、研究者を目指すという覚悟をまだ持てていなかった。これが、啖呵を切って空手を辞めてからの私の現実でもあった。そうした何も、漠然としてしか定まっていない不安や、また自分に対する覚悟の欠如による焦燥感を抱く中で、とにかく自分に間違いなくのこるものとして「期末試験における成績」が最も重要なことがらであった。編入試験という横道から大学に入学した中で、自分の能力と存在価値を示すには最低限、「期末試験」で成績をとる以外に他はないと思った。

 私の成績はおおむね、よかったと思う。受験したほとんどの科目で最高の評価だった。だが、あるひとつの試験、具体的には物権法の試験で「背信的悪意者」の定義が試験中に吹っ飛んでしまった。これは致命的な失敗だった。この定義が正確に書けなければ、事例問題はごまかしつつ書けたが、間違いなく「優」の成績は来なかった。だが、幸運にも私は物権法の試験の形式に助けられ、つまり物権法のテストは試験用紙に記載されている事例問題4つのうち、2問を選択するという形式だったので、私は「背信的悪意者」に係る問題に解答するのを避けて、違う問題(確か、即時取得に係る事例問題に解答したと記憶する)に解答することによって、何とか成績を確保することができた。

 幸運だった。いや、幸運だったのはそのテスト限りで、その後の試験で私はノイローゼーになるほど、法律書や授業で配られたレジュメを一言一句、記憶する努力に労力と神経を傾けるようになった。これがうつ病のきっかけだった。

 次の期末試験が差し迫ったとき、私はテスト勉強をしながら、常に「ふたたび試験中に定義が吹っ飛んで、問題に答えられなくなる」イメージが、何度も何度もフラッシュバックし、それから常に頭の中にまとわりつくようになった。

 そして、あまりにも細かい知識までを暗記しようとした結果、十分に復習を何周も回せなくなったことが(おそらく)原因して、私はまったく暗記することができなくなってしまった。しかも、先ほどまで、目を通していた法律書や、参考書、ノートの内容が、違うページを読み始めた数分後にはまったく吹っ飛んでしまうことに、あまりにも過大に、「自分の頭は悪すぎる!」と責めるようになってしまった。

 その結果、私は、たかが期末試験ごときで、何度も自宅のマンションから飛び降りたくなるほどの状況になった。最もひどい時期は机に座るたびに、咳が止まらなくなり、身体に寒気を感じるようになり、常に視界が暗く感じる状況に陥った。(一般)内科に行った際に私の症状(寒気など)を問診してもらい、各種の検査をしてもらった結果、その病院の医師に「心療内科にかかってはどうか」と提案されたが、プライドが邪魔して結局、心療内科には行かなかったが、明らかにうつ病だったと思う。

 それから、長い間、その症状と闘う時期が続いたし、今も続いている。法学研究科に進学すると決めたのは、その症状が最もひどい時期だったし、そのための準備をしている最中は最も苦しい時期となったので、我ながらよく決断できたと思う。寒気で震えながら、学部のゼミ論を書いていた。その時期は、週に一度のゼミに参加する以外は、ずっと外にひきこもって、部屋にいてゼミ論を書いていた。

 だが、そういう苦しい時間と症状を招いたのは、自分自身のせいだったと考えている。大学編入後は、あまり友達とも遊ばなくなったと思うし、ゼミ論執筆時の過ごし方からみても、病んでもおかしくないほどに私は全く息抜きをしなかった。100か0しかないという思想の持ち主だったと思うし、そういう行動をとっていたし、それが、かっこいいことだと本気で思っていた。

 だが、ある時点から明らかに破綻した。今となっては、何かを得るために、何かを捨てなければならないという考えて、自分をあまりに追い込む必要はないと思う。何かを得るためには、何らかの欠落や犠牲が必要であるとか、何か表現者になるためにはこういう自分でなければならないという思弁、観念によって、あまりに自分を追い込む必要はないと思う。私は、結局、ほどほどに生きることで、楽になれた。ある程度、自分に折り合いをつけることができるようになったと思う。そういう意味で、大人になれたと思う。そういう意味では、自分が描き続けてきた表現者にはなれないと思うが、ずいぶん楽になれて、その症状も随分、緩和された。

 いまの大学院での生活はそれなりに楽しい。求道者とはほど遠いけれども、それなりに楽しいことを大学の外でやりながら、研究をほどほどにやっている。昔みたいに、20時間とかを、勉強に集中できれば、と思うこともある。そういうことはできなくなったけれども、今の生活はそれなりに楽しい。時間は随分、流れてしまった。私も少し年をとってしまった。趣味も、空手、ウェイトトレーニング、そしてウォーキングへと移り変わっていった。