研究者を目指すという熱病

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乙武洋匡さんの記事を読んで思ったこと、感じたこと

 

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 今日、この乙武洋匡さんの記事を読んだ。乙武さんは『五体不満足』が出版されてから、「障がい者」というカテゴリーの象徴として認知されてきたことは間違いない。 

 私自身の乙武さんとの本や教育を介しての出会いを述べれば、幸いなことに私は「ゆとり世代」だったということもあり、「総合的な学習の時間」という「ゆとり教育」による授業で、他者がもつ障がいについて可能な限り理解していくための教育を受けることができたと思う。その際に、乙武さんは、ある種のアイコンとして、ある種の記号として、新たな「障がい者」像や、単に庇護者として扱われることを拒絶する「障がい者」との接し方を、新たに提示する象徴として取り扱われていた。

 私のクラスには、左半身が生まれつき麻痺していた同級生がいた。彼が日常生活で困難に直面していたにもかかわらず、誰もそれを助けなかったとき、ある一人のクラスメイトに対して、他のクラスメイトはどこまで手助けすべきか、について、こうした出来事があるたびに、担任の先生が上からトップダウンで押し付けるのではなく、クラスで討議を重ねた。

 誰も彼のことを助けなかったのは、クラスメイトが彼のことを嫌っていたからではない。むしろ、「対等」に扱うという意識が先行していたからだと思う。自分で出来るだろう、と。クラスで彼は、それなりに好かれていたし、それなりに嫌われるようなこともした。普通の小学生だった(と思う、彼がどう感じていたかは分からない)。

 「ゆとり教育」のおかげで、私たちにはかなりの余分な時間が与えられていたから、こうした熟慮の結果が間違っていたか、間違っていなかったかはともかく、時間をかけて、自分たちのスタンスを練り上げることができたと思う。

 勿論、逃げを打つような留保の連続の文章はよくないと思うが、今でもこうした熟慮の帰結が、正しかったか、間違っていたかは分からない。というか、私は「障がい者」というカテゴリーの人たちに対して、どう接していけばいいか、まだ、いまだに分からない。ありがちな表現になるが、「障がい者」という風に格別に意識することは間違っているとも思うし、現実に何らかの「障害」が存在することを全く捨象して接することも間違っているような気がするからだ。

 結局、私は「誰だって、勉強だったり、運動だったりできないことがあるでしょ、だから、そういう意味では、私たちはみな何かできないことや欠落したものがあって、そういう意味における『障がい』があるのよ。」という考え方に辿り着いた。しかし、この考え方だって、正しいかは分からない。自信もない。この考え方だって、間違いなく、「障がい者」という認識から解き放たれて、自由に、彼を「個人」としてみることができていないと思う。

 以上が、「障がい」についてのこれまでの私なりの取り組み方、考え方だ。

 記事の表題との関係で重要な点として整理しておきたいのは、その考え方を形成する過程で、少なくとも私が、乙武さんが、「障がい」を考える上での極めて重要であると位置づけたモデルケースとして念頭においてきたのは間違いない、という点だ。

 この私(たち)の行為が、一人の「障がい者」の偶像化であり、虚像の作出であったと問われれば、その疑問に対して私は明確に否定することはできない。そして、長年、その「虚像」と実像との乖離に、乙武さんが苦しんでいたこともあまり考えたことも、意識したこともなかったことを告白しておきたい。

 コラムによれば、「自分自身がたいした人間でないことは痛いほどよくわかっていた。だから、聖人君子のようなメッキを剥がされる前に、自分から剥いでしまおうとずいぶん露悪的に振る舞った時期もあった。」、「世間から抱かれるイメージは『清く正しい乙武クン』。そんな虚像が長期間にわたって一人歩きを続けてきた」と、乙武さんはその苦しみを吐露している。

 乙武さんは、不倫問題が生じて世間から集中砲火を浴びたことを、「清く正しい乙武クン」という虚像と、「不倫」とのギャップの大きさによって影響されていたと思われると、述懐する。

 私もアイドルのファンなので、この話をとてもよく理解できる。すでに何度かブログで書いたとおり、ファンが勝手な虚像と理想をアイドルに押し付けて、それと相反するような出来事がアイドルの身の回りで生じたとき、過剰なまでにかつて応援していたはずのアイドルを批判し続ける出来事を何度もみた。例えば、スキャンダルとも形容したくない、仕事のプレッシャーで押し潰されそうな一人の生身の10代の女の子の色恋を必死に、大人が叩き続ける姿は、本当に見るに耐えない。

 ともかく、世間から勝手に自分の実像から離れた理想像を形成され、そのギャップとで批判された乙武さんは、相当に、苦しい状況にあったと思う。乙武さんのコラムでの言葉、「これまで履かされてきた下駄が、今度は凶器となって襲いかかってきたというだけの話だ。」という言葉は、本当に心が痛くなって、彼は「叩かれて当然のことであり、繰り返しになるがそのことについて申し開きをするつもりもない。」というけど、そもそも全然、叩かれることでもなんでもないよ!!!(そもそも不倫って、私的領域における夫婦同士の問題だし。)とメッセージを送りたい。本当に。

 最後に、コラムの乙武さんの言葉を長めに引用したい。

 

 「『障害者なのに』と賞賛され、『障害者なのに』と非難される。正直に言えば、うんざりだ。障害があろうがなかろうが、車椅子に乗っていようがいまいが、私から生み出された結果そのものを直視してほしい。バイアスとか、色眼鏡とか、カテゴライズとか、私の人生につきまとって離れない影法師のような存在を、私はずっと煩わしく、そして忌々しく思ってきた。たとえ他者から『恩恵を受けてきただろう』と冷水を浴びせられたとしても。

 しかし、いくら私が嘆いてみても、いくら私が叫んでみても、おそらくは生涯この影法師から逃れることはできない。いつか手足が生えてきて、健常者としての人生を生きる。そんなことは起こらない。私は死ぬまで障害者として生きることになる。そうであるかぎり、人々は私を『障害者だ』と認識し、私を『障害者として』評価するだろう。

 ならば、すべてを引き受けて生きていくしかない。恐ろしいまでの粘着力で貼りつけられたレッテルをみずから剥がすことができないのならば、そのレッテルとともに生きていくしかない。それを覚悟と呼ぶ人もいれば、あきらめと笑う人もいるだろう。何と言われようとも、そうして生きていくしかない。」(引用終わり)

 

 乙武さんは、自己へのレッテルを全て引き受けて生きることを宣言する。これほどに冷静で熱狂的な言葉を久しぶりに読んだ。乙武さんは、小説『車輪の上』で、この思いを表現されたようだ。

 

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 これほど読みたくなった小説は、久しぶりだ。これほど著者が表現したいことがはっきりとしている小説は、久しぶりだ。これほど現実の世界で世間の認識や評価に苦しんだ人が、そこからまずは逃れようともがき苦しんでいく小説の登場人物を描くことに、興味をそそられる。そして、その登場人物が、社会の中で「個体であること、個人であること」をどれだけ貫けるか、そのレッテルを受け容れるのか、受け容れるにせよ、レッテルを突破するにせよ登場人物がどう生きていくことを選択するか、に興味が搔き立てられる。

 このような関心の持ち方は、私がいまだに乙武さんをある特定のレッテルや神格化の中で認識していることに他ならない(かもしれないが)が、たかだか「ゆとり世代」とか「学歴」といったラベリングで苛立ちを感じてきたこれまでの私に、『車輪の上』という小説がいかなる感情と勇気をもたらしてくれるか、率直に楽しみだ。これほど、購入意欲が掻き立てられる小説は、本当に久しぶりだ。

 小説に対するこのような期待そのものが、まさに再び懲りずに乙武さんに対する「偶像化」を行っているので、頭を醒まして、小説を読みたい。読み終えた後にできれば感想を書きたいと思う。大学院の研究の進捗報告が迫っていて、なかなか、読む時間が取れないが、移動中やお風呂の中で少しずつ読み進めていきたい。

 改めてこのブログの本文の中で引用した乙武さんのコラムは以下の記事となります。

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